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2012年01月11日(水)
宇田経済学における貨幣の定義
宇田経済学では、貨幣は、記録・計算・証拠の機能を担う経済循環機関の部品、である。

これは間違いなく新しいアイデアだ、と直感したが、念のためにGoogle検索して調べてみると、既存の経済学では、貨幣は、価値の尺度、価値の保存、交換の手段という3つの機能で定義されており、特に、価値が貨幣の形で保存される、と考えられている事が確認できたので、私のアイデアは根本的に新しい、と分かりました。
既存の経済学での貨幣の定義は、経済学の専門家でない人(私も)が漠然と思っている事をキチッと言葉で述べたものに過ぎない、と感じます。
私は、経済学については、素人です。

さて、記録・計算・証拠の機能とは何か、以下に説明します。

宇田経済学では、貨幣は経済の実体には含まれない、と考えます。
この事を私は標語的に、お金は幻である、と言いたい。
そして、金銭的報酬の伴う全ての取引は、報酬を受け取った人が一方的に与益し、報酬を支払った人が一方的に受益するもので、貨幣は、その事実を、ただ記録するのみである、と考えます。
これが、貨幣の記録機能です。

次に計算機能ですが、貨幣の計算機能は、報酬を支払う事によって、支払った分だけ、受益者の所持金が減少する事、および、報酬を受け取る事によって、受け取った分だけ、与益者の所持金が増加する事、です。

証拠機能については、簡単のために金銭の譲渡や借金は考えない(それらを考慮した形での議論を後回しにする)事にすると、現在の受益者が過去の与益の事実について、それを過大に偽って申告する事を、貨幣が不可能にしている、という事です。
そう言うのなら貨幣を出してみろ、と言われた時に、出せないからです。

貨幣の証拠機能は、人間の正直さの不足を補っており、貨幣は当の最初から防犯目的で使用された、と言えます。
記録機能と計算機能については、現在の受益希望者が、自分の過去の与益累積に相当する受益を既に受けているのに、まだだと誤解して、もっと受益させろ、と主張するのを防ぎます。
これは、人間の記憶力と計算力の不足を補っています。

ここまで書いて気付きましたが、既存の経済学で言うところの「価値の尺度」も、付け加える必要がありそうです。

私は、まだ十代の頃、貨幣の基礎について初めて思い巡らした際に、貨幣が価値を持つ、という考えは便宜上のものに過ぎず、貨幣が価値を持つものと見なして扱うとどこにも矛盾は生じないが、本当は貨幣が価値を持つのではない、という事を即座に見抜きました。
それを友人に話したかもしれません。
しかし、その時は、じゃあ本当はどうなのか、という事については、このページに書いてある様な事が頭の中に感覚として存在していただけで、言葉で説明できるレベルには達していなかったので、友達に話していたとしても、アマノジャクやハッタリの類だ、と思われたのではないか、と思います。
しかし、今の私なら、キチンと言葉で説明できます。

宇田経済学では、貨幣の登場は、本質的には、交換価値を持つ物質片の採用ではなく、貨幣の使用という新種の契約の許容化(契約の自由の拡大)だ、と考えます。
最近話題に成っている様に、電子マネーというものが少なくとも理論的には可能だ、という事が、その考えを裏付けています。
実際の歴史では貴金属(交換価値を持つ物質片)が貨幣に用いられたのも事実だが、それは、貨幣の使用という新種の契約の許容化が、その時代には、まだ未完了だったから、という風に理解できます。

私の言う新種の契約とは、個人等と経済全体の間に結ばれる契約です。
例えば、個人Aが個人Bに与益αをし報酬として百円を受け取った場合、これは、個人Aが経済全体に与益αをし、その代わりに経済全体から将来、個人Aの決める任意の時期に、個人Aの決める任意の種類の、百円分の益(金銭を除く)を強制的に徴収できる、という契約を、個人Aと経済全体が結んだ、という事です。
つまり、ここに言う新種の契約は、金銭以外の益の貸借契約であり、貨幣は金銭以外の益を貸した事を証明する債券だ、と言える。
任意の時期に任意の種類の、と言っても、それは経済活動の領域の範囲内から選ばれねばならず、その範囲(経済活動の領域はどこまでか)を決める問題は、別途検討が必要である。
強制的な徴収を受けるのは経済全体だから、個人Aから請求されたどの個人も拒否する事が出来るが、どこかの誰かが受けなければ、経済全体は約束を破った、という事に成り、その分、この新種の契約の信用(貨幣の信用)が低下する。
貨幣の信用が低下する、とは、人々が貨幣を、なんだこんなもの、と言って軽んじたり、貨幣で支払われる事を前提とした与益をしなく成る、という事だ。
けれど、それは、各人に、貨幣の信用を維持せよ、という義務が無制限に課せられる、という意味にではなく、新種の契約(貨幣)が市場原理によって棄却される事もあり得る、という意味に解されるべきだ。
実際には、我々の現実社会では、みんなカネカネと言って貨幣を追い求めているので、新種の契約(貨幣)の信用は非常に高い、と言える。

貨幣に対する従来の理解は、2者間の物々交換描像を、基本としている。
つまり、前の人に手袋を与え、その代わりに、前の人から靴下を受け取る、といった描像だ。
これに対して、貨幣経済に対する私の理解は、前の人に手袋を与え、その代わりに、後ろの人から靴下を受け取る、といった描像だ、と言える。
何か、アインシュタインが一般相対性理論の説明として用いたとされる、ずっと前方に自分の後頭部が見える、という話を彷彿とさせる。
これが、経済全体との取引であり、イメージとしては、全体が輪に繋がっており、自分はその輪の中の一人で、前の人に手袋を与える事は経済全体に手袋を与える事で、後ろの人から靴下を受け取る事は経済全体から靴下を受け取る事だから、経済全体と自分が物々交換をした、という風に理解できる。
これは、やってみるまでは、そんなもの本当につながるのか、と疑ってしまう様なネットワークが実際に繋がっている、という事であり、貨幣経済については醜悪な面ばかり強調される事が多いが、大筋においては、まるでキリストの教えを地で行くかの様な奇跡にも見える。
2者間の物々交換描像よりも、私の物版インターネット描像の方が、現代社会に暮らす我々の実感に近い。

貨幣に対するこの新しい理解の仕方を、私は、主に、善悪の判断基準を得るために、考え出した。
日頃から私は、世の中にはどこかおかしい所がある、と感じており、貨幣と経済の基礎を考え直せば、壮大なスケールのペテンを暴けるのではないか、と思った。
例えば、益の貸借の考え方は、金銭の貸借を基本とする我々の現行の経済認識にどこか裏返った所があるのではないか、という問題を予感させる。
また、宇田経済学を使えば、貨幣経済の弱点というものが明らかに成り、貨幣経済のセキュリティーホールを突く様な行為が、サイバー犯罪の様な悪として特定できるだろう。