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2008年1月16日(水)
勝つと言うのはなあ
昨日だったか、成人の皮膚から万能細胞を作る事に成功した日本人研究者が、NHK「クローズアップ現代」で紹介されていた。
日本では十分な支援が受けられない、と言っておられた。
どうしてなのだろうか?
こういう業績に対しては社会は、高く評価し、それ相応の処遇をする義務を負っているはずである。
この研究者は、まだオメデトウを言われる段階ではない、と言っておられたが、これは謙遜なのか、それとも、本当に、実用化に至らない可能性があるのだろうか?
こういう業績については、それを達成した研究者が、個人の自由として許される事に成っている範囲内で、如何に不埒な考えを持っていても、如何に唯我独尊的な言動をして来ていても、社会は、その業績を正当に評価し正しく処遇する必要がある。
(もちろん、上記の研究者がそういう人だ、と言っているのではない)
したがって、そういう風にして自分の人生を成功に導く、という人生設計は可能であり、そのようにして成功する事を、私は「勝つ」という言葉で表現して来た。
私の言う「勝つ」は、限度を超えたヤマンバのような貪欲さで経済力を濫用して弱者を搾取する事、ではない。
その意味、勝ち組・負け組という言葉によって表される状況を肯定する風潮には、私は非常に問題を感じている。
勝ち組・負け組と言うときの「勝つ」は、私の言う「勝つ」とは全く別であり、むしろ正反対だとすら言える。
正しく勝つ事は、自尊心の傷付きや、経済的成功への羨望といった心的負担以外の点では、あらゆる点で、他者を益するものでなくてはいけない。
正しく勝つ事に対しては、阻止は一切厳禁である。
目上の人など、社会の恩人よりも、その人の方が勝つのはけしからん、という考えも、間違いである。
なぜなら、正しく勝つ人こそが、社会の恩人であるからだ。
これは、目上の人に対しても恩人なのであり、したがって、勝つのはけしからん、という考えの方が逆さまなのである。
合法的な公営ギャンブルで儲ける事によって自分の人生を成功に導く事も、私の言う「勝つ」に当たるので、説明は難しいが、公営ギャンブルによって勝つ事は、模範的な勝ち方ではない。
私の言う「勝つ」の反対は、他者に自分の味方に成ってくれるように頼んで、その助力によって自分の人生を成功に導く事だ。
これは、選挙に当選して政治家に成る、とか、芸能人として観客の人気を得る、とか、有利な契約の積み重ねによって商業的に成功する、などの場合で、これらで成功した人が、有権者に勝ったとか、観客に勝ったとか、取引相手に勝ったとか言うのは、不心得である。
不心得であるから、まさか、そんな言い方をする人は居まいと思うが、最近流行の勝ち組・負け組という言い方の中には、商業的成功者が取引相手に勝った、という認識が多分に含まれていて、不心得である。
正社員(雇用者)が派遣社員(被雇用者)に勝っている、という認識は、これであり、非常に歪んでいる。
政治家や芸能人や財界人についても、協力関係や取引関係の無い同業他者に勝った、という言い方は、不心得ではないが、そういう場合には、一人が勝ったのではなく、協力者も一緒に勝った、と見なされねばならない。
私の言う「勝つ」は、多くの場合、挑戦の存在が前提と成っている。
合法的な公営ギャンブルの場合について言うなら、私は公営ギャンブルで儲けて自分の人生を切り開く、と公言したなら、周りからせせら笑われるだろう。
「どうぞ御自由に。出来るものならやってみろ。それが出来るならば、皆とっくの昔にやってるよ」という風に。
これは挑戦である。
したがって、それをやりとげ、自分には出来る、という事を証明して見せる事は、勝つ事に当たる。
公営ギャンブルに限らず、世の中には、目指すと公言したらせせら笑われる行為が幾つもある。
私の場合、学生時代に、大学院に行かずに独学によって業績を達成する、という自分の目標を述べたら、ある教授から「そんなのは夢のまた夢だよ」と嘲られた。
これは挑戦である。
挑戦の言葉を述べた者だけが挑戦者なのではない。
そういう言い方をする性質を潜在的に持っている者が全て挑戦者である。
そうでない人の方が少数派だから、挑戦者を特定せずに漠然と、社会に挑戦が蔓延している、と表現しても良い。
挑戦というものは、負けても文句は言いません、という約束である。
なのに、私に挑戦した者の中に、私が勝つと怒る者が居る。
このような態度は、ぬすっと猛々しい。