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2008年1月11日(金)
「エジソンの母」を見て
半ば義務的なものを感じて見てみた。
あんまり言うと「笑いの大学」で言う所の「台本直し」に成ってしまうので、程々にしておく。
ミカンの個数についてもめていた局面では、私だったら、十分にギャグである事を断った上で、賢人君に「お前、本当は大人だろう」と言うだろう。
それから、「ミカンの房の個数は 8 だ」と言っていた事をとらえて、賢人君に「それが分かるんだったら、ミカンの個数が 2 である事も分かっているのではないか?」と尋ねる。
基本は、本当に分からないのか、それとも、一応分かるが一応を超えて批判的に考える事も出来る、と言っているのか、賢人君に尋ねて、一応分かるが一応を越えた事を言っている、という事をハッキリさせ、一応を超えた事を言える所は偉いがそれは後で聞くとしてとりあえず一応のレベルで授業を進めさせてくれ、と言って了解を得る。
それに加えて一応を超えた意見を述べる機会も出来るだけ生徒に与えそれを評価するようにする、のが正道だろう。
先生は生徒のどんな発想をも凌駕する数学についての進んだ知識を持っていなくてはいけない、という事ではなくて、小学校の先生は、1+1の答としては 2 以外は間違いだ、という知識でも良い。
要は、自分の判断能力を超える意見を生徒が述べた際に、あわててそれを潰しにかからない様にする事だ。
「先生にもそこまでは分からない」という態度で良いのだ。
そして、生徒の言う事にも一理ある、と感じたら、素直にそれを評価してやる事だ。
そのような態度では信用を失う、と怯えて不誠実な態度を取る事の方が、もっと信用を失う、という事に気付いていない先生は多い。
一応のレベルでなら生徒は理解できている、という事は、確認しておく必要があるが、それさえ確保できていれば、それ以上の事は、生徒に好きにさせれば良い。
もちろん、生徒のどんな発想をも凌駕する学識を備えておくに越した事は無いが、それを全ての先生に要求するのは酷である。
また、上記の誠実な対応を生徒に模範として見せる事にも、意味がある。
学識の程度というものは、先生の有能さの根幹であり、先生が先生たるのは学識ゆえであるが、この点で全ての先生を揃えようという考えは、間違っている。
先生には、学識の点で偉い先生とそうでもない先生が居る、というのは事実であり、誰が偉くて誰がそうでもないかは、教える側が公表する必要は無く、生徒の評判に任せれば良い事だが、先生の優秀性の表出を妨害する目的で先生の言動を縛ったり先生に雑務の負荷を掛ける事や、評判自体を取り締まったり、あるいは、どうしても評判をコントロール出来なくなったら、学識は先生の有能さとしては第二義的なものである、という風に基準を捻じ曲げる、という事は、甚だしく間違っている。
そのような態度を学校が取れば、その事は、生徒に対して負の教育効果を持つ。
先生に対してであっても、良さの点でありのままの自分以下であるかのように振舞う事を、学校が強制するならば、学校は、生徒に対して、他生徒のありのままの自分である事を認められる権利を尊重せよ、と教える事が出来ない。
ただし、テレビドラマが「このドラマはフィクションである」と表示するのと同様の表示を学校が行なう場合には、学校が先生に本来の姿とは違う姿を見せるように演技させる事は直ちに不当だとは言えないし、その場合には、その事を子供には隠す、という事も、2007年12月2日の日記に書かれている考えによって正当化され得るが、事実を完全に隠蔽して演技させる事は、人格の売買と見なされるので、不当である。
また、自分の自尊心にとって不快な事を無くす唯一の正当な手段は、ありのままの自分を高める事だから、さあ学びましょう、という風に、動機付けする事が、出来なく成ってしまう。
その点、このテレビ番組では、学校教育が知性を中心に語られている所は、見ていて気持ちが良かった。
学校という所は、本来、知性を中心とした所でなくてはいけない。
だから、学校は、「屁理屈」という言葉の使用には最大限慎重でなくてはいけない。
理屈に対してはとことん理屈で応じなければ、生徒は、理屈で勝っても何も起こらないのか、と見切り、自分の理屈を高める努力をしなく成ってしまう。
生徒が、知性を磨けば報われる、と信じるか否かは、生徒が学校を自分にとって必要だと考えるか否かに、等しい。
屁理屈に対しても、屁理屈の一言で片付けるのではなく、どこがどう屁理屈なのか説明する、という態度が、基本である。
そう出来ない時にも、理屈のどこかに間違いがある、という風に匂わせるべきであって、理屈というものはおしなべて屁である、というニュアンスをかもし出す事は、学校にとって自殺行為である。
学校は理屈を教える所だから、理屈が屁ならば、学校も先生も屁だ、という事に成ってしまう。
ただし、先を学んだ者が学んでない者の知識を馬鹿にする事は、模範的な態度ではない。
ちなみに、私は、学校教育で教えられていた間、各段階での一応を教える学識に欠けていた先生は、基本的に全く居なかった。
それに、それらの人々は、一応の部分の学習が、私よりも進んでいたので、私にとって十分に先生であった。
私が中学 1 年生だった時、数学の時間に、線は点の集合である、という話が先生から出て、それに対して私が、点を何個集めても線には成らない、という風にコメントしたら、その先生は即座に私を褒めてくれた。
一つには、これは、その先生が学識人格共に出来た先生だったからであるが、もう一つには、そこでの私の批判的コメントが、2007年11月25日の日記に書いたようなものに満たないものであったからでもある。
私の経験からすると、自分の発表が、その段階の一応を超えていても、先の段階の一応には存在し、それを先生が知っている場合には、先生は褒めてくれる場合が多い。
1+1≠2 というアイデアは、先の段階には存在するケースに当たる。
この場合、先の段階は、このテレビ番組で紹介されていた諸見解ではなく、最もヒットするのは「体の公理」辺りだろう。
ちなみに、賢人君の論法に対する真面目な反論を書くと、部品の個数とまとまりの個数は別である、という事に成ろう。
逆に、賢人君の論法を反駁不能な形に強化すると、ミカンの個数というものは厳密には定義できない、という形に成ろう。
知性に関する事以外では、危険回避には気を付けなくてはいけない。
子供が、集団で校外へ走り出て先生の目の届かない状態に成ったり、監督者の居ない理科室でAC電源に触れようとしたり、という事は、絶対に無いように厳しく言って聴かせる必要がある。
校外へ走り出た件については、図らずも、言論の危険性というものが表現されてしまっていたが、もちろん、あれはフィクションであって、論理学上のパラドクスがタミフルのごとき作用を持つ事は無い。