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2008年1月4日(金)
人の心を試す限界
ある人に対して「馬鹿」とののしって、その人が怒ったならば、その人は馬鹿とののしられる事を許さない性質を持っている、と結論付ける事が出来るだろうか?
実は、出来ない。
と言うのは、そこで心を試された人は、実際には馬鹿であるか馬鹿でないか、どちらかであり、実際には馬鹿でないのに「馬鹿」と言われたから怒った、のかもしれない、からだ。
つまり、馬鹿という言葉に怒ったのではなく、事実と違う事を言われたから怒った、のかもしれない、という事だ。
そういう人に対して「馬鹿」とののしってその人の反応を見る事によってでは、その人がもし馬鹿だったとしてもその様にののしられる事を許さない、かどうか、を確かめる事は、出来ない。
したがって、実際には馬鹿でない人に対して「馬鹿」とののしって、その人が怒ったからと言って、その事だけを根拠に、その人が本当に馬鹿な人を「馬鹿」とののしる事を、矛盾だと言って非難する事は、出来ない。
一般論の形式で言うと、ある特定の個人に対して、刺激と反応の関係を測定しても、刺激と反応をつなぐ内的アルゴリズムは特定できない。
内的アルゴリズムを知るためには、その人から直接言葉による説明を聞くしかない。
ある人の行ないの全てが、審判がそれを肯定せねばならないものだったならば、その人を試すために、審判にその人の行ないを否定させて、その人の反応を見ても、もしその人に欠けるところがあったならば審判に否定される事を受け入れるのか、を確かめる事は出来ない。
したがって、そういう人に対して、あなたが審判に従わないのなら我々も従わない、という態度を取るのは間違いである。
悲鳴を聞かせて助けに来るかどうか確かめる事についても、試されている人は、それが自分を試すための悲鳴だと見破るかもしれない。
だから、助けに来なかったとしても、試された人が、他人が困っていても手を貸さない性質を持っている、と結論付ける事は出来ない。
ある特定の個人に対して、入学試験に落ちる経験をさせなければ人間的に成長しない、という理由で、その人の入学試験の得点が合格点に達していたのに、合格点以下だったとして不合格にしたならば、その事の、その人の人間的な成長に与える影響は、本当に得点が足りなくて不合格に成った場合とは、微妙に異なり、その差異は決定的に重要である。
本人にはどちらなのか分からないはずだから影響は同じだろう、という考えは、甘い。
その差異は、その人の内的アルゴリズムの違いと成って、その人のその後の刺激に対する反応に、反映され、その結果が、人格のコントロールを目論んだ者にとって、手痛いしっぺ返しと成る、という事は、大いに有り得る。
私が言いたいのは、特定の個人というものは、実際にあるがままのその人以外のものではあり得ず、したがって、もしそうでなかったらその人はどうするのか、という事を、実験によって確かめる事は出来ない、という事だ。