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2007年12月29日(土)
勉強と個人主義
私が子供の頃には、勉強するという行為は、異論の余地無く、全くの個人的な行為だった。
それは、自分個人がどれだけのものであるのかが厳しく問われる、一つの正念場である。
しかし、つい先ほど放送大学の授業で見たが、最近では、共同学習を学習の中心に据えよう、という動きが見られるらしい。
そう言えば、今までにも何度か、テレビ等を見て、そういう気配を感じた事があった。
確かに、放送大学のその授業で指摘されていたように、異種の個人と接触したときに学力の飛躍的向上が起こる場合が多い、というのは、正しい。
しかし、これには、直感的に、教育ぶち壊しの気配を感じるので、チョッと待った、と思う。
2007年11月29日の日記に書いたように、社会の至る所でぶち壊しが始まっているのは、由々しき事態だ。
論理的に説明せよ、と言われると難しいが、たとえば、テストを個人単位で受けさせるのではなく、グループ単位で受けさせる、のに似たものを感じる。
テストまでグループで受けさせるのは間違いだ、という事には誰でも納得すると思う。
授業は、第二のテストとしての機能も担っている。
授業は、子供にとっては公廷である。
論理的には、学力の発達自体に関する問題、学力以外の知の発達に関する問題、生徒の権利、ぐらいだろうか。
学力以外の知の発達に関しては、自分を知り他人を知る、という事が挙げられる。
これは、他生徒の発表状況と、自分の発表状況や内的状態を、比較する事によって、自分は他生徒に比べてどうなのか、他生徒は自分と比べてどうなのかを、主に優劣に関して、素直に注意深く感じ取り、それを自分の今後の身の振り方に誠実に反映させる、という事だ。
そのためには、授業は裁判のような形式で行なわれるのが正しい。
つまり、議事の進行への個の関与を明確に分離しつつ、授業は行なわれるべきだ。
その意味、古い授業の形式でも、十分に共同学習に成っている。
グループ学習では、その点がうやむやにされ兼ねない。
それから、一人で勉強する、という活動によって、自分一人ではどうしても解決できない問題、というものにぶつかり、そう認識させられる事があるが、共同学習では、その点がうやむやに成り、はっきり認識されない事が懸念される。
また、それに限らず、一人で勉強する、という活動は、自分そのものを良く観察して知る、ための大切な機会だ。
生徒の権利、という観点から言うと、優秀で多産な生徒が、手柄をもみ消される、という事が、グループ学習では、懸念される。
何でもかんでも、みんなでやった、という事にするのは、事実のもみ消しであり、人権蹂躙である。
学校という所は、人権を教える所であり、人権は個人主義に立脚している。
才能の有る個人を一人にすると、どこまで伸びるか分からないので、常に共同学習の中に置いて、伸びを抑制する、という事は、当然あってはいけない。
生徒を一人にさせない、という言葉を聞いた事があるが、この言葉は、私に、そういう目論見の存在を疑わせる。
そうだとすると、とんでもない話だ。
それでは、ゲリラが、不断の攻撃によって敵兵を眠らせない、と言っているのと同じだ。
それは、勉強の指導ではなく勉強の妨害である。
それから、卓越した優秀性を示した生徒が、ここまで出来ても認めてもらえないのか?と嘆かなくてはいけない状況が生じる事も、あってはいけない。
学校という所は、優秀者を表彰する所である。
生徒の優秀性の顕在化は、もみ消すどころか、目を皿のようにして見付け出し表彰するのが、学校の先生の責務である。
学校がそれをうやむやにする事は、警察官が泥棒を働くようなものだ。
学力の発達自体に関しても、一人に成ってじっくり勉強する、という活動は、今でも勉強の中心だ、と私は思う。
一人で勉強する事には、解説記事の読解も含まれ、これは、立派に、解説記事の著者という異種個人との接触だ。
また、共同学習は、一人に成って十分に勉強して、その限りにおいて行き着く所まで行った後の話だ、と私は思う。
チョッと考えさせてくれ、と言っても、周りの人が、それを無視して畳み掛けるように次の話をして来る、という事態に似たものを、一人に成って勉強する事の否定からは感じる。
それでは、学力の発達が阻害される。
私の勉強経験から言うと、確かに、異種個人との接触によって、自分では気付きにくい貴重な情報を与えられたり、重要なアイデアが湧き出たりした事もあるが、一人に成ってじっくり解説記事を読み理解する、演習問題に取り組む、自分なりの問題意識で考え込む、といった事も間違い無く重要であった。
総じて、一人に成ってするのが勉強で、他人との接触は刺激やヒントぐらいだった。
時間にすると、勉強については、一人での勉強時間に比べて、異種個人との接触時間は一瞬程度だった。
それに、私の場合には、異種個人との接触による学力の飛躍的向上は、無かったとしても、平均的な学力には到達できた。
私の場合には、異種個人との接触による学力の飛躍的向上は、接触した相手にも想像できないような、素晴らしいアイデアを思い付く、というものである場合が、ほとんどだった。
私個人の話をしても、一般論の根拠には成らないかもしれないが、研究者の学術的会合への参加状況は参考に成るだろう。
学術的会合は、年がら年中開催されているわけではなく、参加者の活動時間全体に比して、学術的会合への参加時間は、ほんの一瞬程度だ。
この比率が正しい。
年がら年中学術的会合で意見交換に明け暮れていたのでは、ろくに研究なんて出来ない。
そんな事では、学術的会合で発表する内容も無くなってしまい、ひいては学術的会合の内容も空疎化するだろう。
個人学習と共同学習の関係は、これと相似である。
共同学習においては、自分で考えると時間がかかる問題も、自分で答を出す前に、出来る生徒の答を聞いてしまう事に成る。
これは、自分を知るという事だけでなく、学力の発達にとっても、良くない。
自分自身に真剣に向き合って、自分一人でどこまで出来るのかを、確認したり、独力でそれを伸ばしたりする行為は、大変重要である。
腕立て伏せは、一人でやるものであり、他人と一緒にやる場合も、それは、腕立て伏せ自体を共同でやっているのではない。
勉強にもそういう部分がある。
共同学習は、それが出来るように成った上でする事であって、最初から最後まで共同学習ばかりで、個人学習を知らない、個人学習をしたくても出来ない、という事ではいけない。
2007年12月2日の日記に書いた「子供の中には凡庸な者は一人も居ない、子供はみな天才である、という事で良い」という私の意見は、学力の差をもみ消す、という事ではない。
差を認め優秀者を表彰した上で、低学力の子にも、潜在的な可能性は持っている、と信じさせてやる事だ。
自分の潜在的可能性としての才能に絶望する事は、子供の場合には勘弁してやった方が良いが、子供でも、顕在化した能力での勝ち負けから目を背けさせてはいけない。
学校は、実力主義という正義を学ぶ所である。
それから、学力を見て、良く出来る子に、平均的な子よりも才能が有る、という風に、統計的な評価を与えてやる事も、大切で必要だ。
才能の断定的な否定は、如何なる子供個人に対してもすべきではないが、才能の断定的な肯定は、しなければいけない。
共同学習と一緒に語られる、学力差を縮める、という目標設定にも、私は問題を感じる。
生徒の学力は全て学校教育によって与えられたものである、という、事実を誤認した思い上がった考えが、そういう変な目標設定につながるのではないか。
結果を予定するのは八百長である。
生徒にフェアプレイの土俵を作ってやる、という目標設定が正しい。
また、学力差を縮める、という目標設定には、出来る生徒が伸び過ぎる事それ自体を、否定的に評価する価値判断が含まれている。
この価値判断は、甚だしく間違っている。
一人にすると伸び過ぎるので共同学習の中に置いて伸びを抑制する、という行為は、2007年12月22日の日記に書いた権利の侵害であり、それは単純な悪である。
社会のブッコワシの本質は、正義への天邪鬼であり、教育のブッコワシに関しては、それは、私の本「
古典物理学」の「まえがき」に書かれている様な事に対する、天邪鬼である気がする。
学力の発達には、生徒の態度の良し悪しも、大きく効いて来る。
他人の話に耳を貸さない生徒は伸びないし、真摯に努力しない生徒は伸びない。
そういう生徒が敗北して敗北感を味わい、態度が良かったために伸びた生徒が表彰される事は、全く不公平ではない。
逆に、態度が良かった生徒が態度が悪かった生徒と同じだとされるのは、不条理である。
その意味、到達学力の責任を完全に生徒個人に負わせる、古いスタイルの授業運営が、おおむね正しい。
個人主義の否定は、ずるい考え方の温床に成る。
個人主義を否定した授業運営をすると、生徒がズルイ人間に成る。
ただ、古いスタイルの授業運営では、才能の差というものを全否定して、勉強の出来不出来の全てを、そのような生徒の態度に起因する、と考える所に、少し無理がある。
実際、資質において愚鈍な生徒というものは居る。
そういう生徒に、お前が出来ないのは態度が悪いからだ、と言って叱り付けるのは、間違いだ。
そこまで行かなくても、才能の差というものは、絶対にあるのだ。
しかし、古いスタイルの授業運営にチョッと欠陥があるからと言って、その正反対の授業運営に切り替えるのは、とんでもない間違いである。
特に優秀者の扱いは、古いスタイルの授業のままが正しい。
加えるべき修正は、弱者割引であり、これは、2007年11月14日の日記に書いたように、実力主義によって生じる格差に比べると、量的には僅少でなくてはいけない。