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2007年12月1日(土)
集団の自由と個人の自由
個人の自由は、それ自体が目的であるのに対して、集団の自由は、個人の自由を達成するための手段であるから、集団の自由を達成するために個人の自由を抑圧する、という態度は本末転倒である。
集団の自由が、ほとんど全く制限を受けないのは、いかなる個人についても、その集団へ所属しない自由が保障されている場合のみである。
集団の独立は、その集団を部分集団として含む大集団や他の集団からの外力によって、その集団内の個人の自由が脅かされる事に対する対抗措置としては、正当であるが、集団の独立権によって集団は構成員にいかなる内部強制力を設けようとも勝手である、という事には成らない。
また、集団内の個人や部分集団が集団内の他の個人の自由を奪う、という事を抑制する警察力も、集団の自由が個人の自由よりも優先されるのが正当な場合だ。
職場は、所属の回避が困難な集団の、最も身近な例だと言える。
であるから、雇用契約は全く自由ではなく、法的に制限される。
職場の場合には、各集団に所属しない実質的な自由が、事業者間の競争によって影響される。
普通は、ある集団が競争力を高めようとすると、雇用契約の内容が、被雇用者のそこへの所属の程度が増大する方向へ、向かう。
見かけ上はその反対に見える非正規雇用の増大も、低賃金等の冷遇によって不可避と成る長時間労働という、実質的な所属の程度の増大だ。
一つの雇用者がその全部に関わらずとも、被雇用者一人当たりの合計労働時間を取れば、そう成る。
それと同時に、その集団が競争力を高めると、他の集団は競争に敗れる方向に向かうので、他の集団への所属のし易さは減少する。
大雑把に言って、この2つの理由によって、構成員に程度の大きな所属を要求する集団ほど、そこへの所属の回避は困難に成る傾向性が生じる。
つまり、集団の自由を無制限に認めれば、経済競争によって、職場は、個人の自由を際限無く吸い込むブラックホールに成ってしまう。
一昔前には、国家間の戦争がそれだった。
集団への所属の程度が限度を超えると、それは、人身売買に成ってしまうが、言うまでも無く、人身売買は禁止されるべき事項である。
であるから、職場の内部規定は、任意ではない。
しかし、職場がブラックホールに成る上記のメカニズムを踏まえれば、どういう競争なら自由なのか、が分かる。
それは、雇用条件を悪化させる競争ではなく、仮想的に雇用条件を同一に揃えた場合に差が出る部分、での競争なら自由だ、という事だ。
これは、言い換えると、エリートカテゴリーでは競争して良い、という事と、ほぼ同義に成る。
ついでに言うと、雇用条件を悪化させる競争というものは、非エリートカテゴリーで競争する事、に当たる。
日本が経済大国と言われ始めたばかりの頃、日本の評論家が、石原慎太郎氏だったか、アメリカは経営陣が優秀であるのに対して日本は下で働く人が優秀だ、という風な事を言っているのを聞いて、少し良い気持ちに成ったが、今に成って思うに、これは、差し詰め、アメリカはエリートカテゴリーで競争力を稼ぎ、日本は非エリートカテゴリーで競争力を稼いでいた、という事に成るので、日本人はこれを聞いて喜んでいてはいけなかったのだ。
ある集団に所属しない自由が保障されている場合でも、他の集団を侵略する自由は、その集団には原則としては無い。
しかし、その事は、不当な内部強制力を行使している集団に対して、それをやめさせるように外部から強制力を加える事も一切不当である、という意味ではない。
集団の内部強制力の中でも、集団の名誉を汚さず積極的に高めるように行動せよ、という強制力が、しばしば問題を起こしているように見受けられる。
この様な強制力は、集団に所属する個人の自由を保障するためのものではないから、不当である。
集団の名誉を高めるように、という要求は、個人の自由に対してあまりにも口を出し過ぎているし、何の罪も無い人を単に無能であるという理由だけで吊るし上げる事につながるので、かなりいかがわしい。
論理的に言うと、自集団が名誉に関する事実において他集団に負けないように、自集団の構成員に強制力を及ぼす事の多くは、自分個人の自尊心を満たす作業への協力を他人に強いる、という行為に当たるだろう。
自分の自尊心を独力では満たせないものだから他人の栄誉にあやかる、という、虎の威を借る狐、にも似た考えだ、とも言える。
私が子供の頃には、友人の中に、自分の親族に如何に偉い人が居るか、を自慢する者が、居た。
「でも、それはお前自身じゃあないだろう」という突っ込みをして笑ったのは、私だけではなかった。
そんな事は、子供でも知っている。
こう考えれば、そういう考えが如何に歪んだ醜い考えであるかが、分かる。
つまり、そういう人の協力しない者への批判は、盗人猛々しいのだ。
上に書いた、個人の自由に口を出し過ぎている、と言うのは、一つ例を挙げると、そういう事が出来たのでは、チンピラが路地裏で通りがかった人に言い掛かりを付けて絡むのに似た、自分を差し置いて成功して行く他人に言い掛かりを付けて絡み妨害する事が出来てしまう、という意味において、悪用されて被害が出る、という事にもつながる。
個人の幸福の総和を超えた価値がこの世にはあるのだ、という高邁な思想は結構なのだが、あくまで、これは、個人主義以前から個人主義に移行する際に得られたものを損なわず、それを保ちつつ為される事項についてしか、容認できない。
防犯の解除や無防備の強要、取り放題の徴用の復活、を意味するものであっては、いけないのだ。