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2007年11月29日(木)
フンドシの相対性
ここに、今、私が書いているような事は、ある意味、当たり前の事であって、今更、なぜ、こんな事を書かなければいけないのか、という類の事だ。
法律を勉強している人にとってみれば、ここに私が書いている事には何ら目新しい考えは含まれていない、という事は、大いに有り得る、と思う。
それなのに、今、非常に嘆かわしくかつ非常に腹立たしい事に、その当たり前な事をあえて明示的に主張する必要性が生じている。
少なくとも日本社会においてはそうだし、ヒョットすると世界規模の現象かもしれない。
つまり、その、皆が当たり前だとして来た事を、まるでそんな事は無かったかのように言う、事実の抹殺の傾向が、社会に生じているのである。
そのブッコワシに対して、我々は、大急ぎでバンソウコウを当てなければいけない状況が、今、生じている。
非常に腹立たしい。
さて、フンドシの相対性について、本論に入る。
資本主義においてはお金がフンドシだとされるが、共産主義においては労働がフンドシだとされる。
共産主義においては、資本家が労働者のフンドシで相撲を取っている、と考えられるが、資本主義においては、売った人が買った人に「有難うございました」と言う。
私は、お金か労働かどちらか一方だけがフンドシだと考える事は、偏った間違った考え方だと思う。
それは、鶏が先か卵が先か決めようとするものだ。
私は、子供の頃、科学の研究に貢献した人の話を聞いたとき、それは献身的な行為である、と言われて、なるほどその通りだ、と思った。
自分は、そういう損な生き方には耐えられないだろう、と思った。
それが、大人に成って、そういう気持ちに打ち勝つ事が出来るようになり、学問に没頭する事をむしろ得な生き方とさえ感じる事が出来るように成ると、そういう生き方は他人のフンドシで相撲を取る行為だ、と非難されるようになる。
どちらがどちらのフンドシで相撲を取っているかは、当事者の主観によって決定される事ではない。
本人が得だと思っているから得だ、という事にされたのでは、心を適応させる、という高等テクニックが使えない。
損な状況に打ち勝つために、自分の心を自分でコントロールして、その状況を得だと感じる事が出来るようにする事は、仕事を出来るだけ楽にこなす工夫であって、その果実を周りの人が不公平だと言って摘み取る事は、窃盗である。
他人のフンドシで相撲を取るには才能が要る。
その行為は、出来るものならやってみろ、であって、やってはいけないからしない、のではない。
たとえば、宝くじを当てて、それで人生における金銭上の問題を全て解決しようとする生き方を考えよ。
これは、成功すれば、他人のフンドシで相撲を取る事、以外の何者でもない。