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2007年11月28日(水)
出版という名の造幣
昨日のNHK「クローズアップ現代」で、自費出版におけるトラブルの話題が採り上げられていたので、それを見て連想した事を、ここで先に述べる。
コメンテーターの天野祐吉さんは、出版する事は成功の証だ、という社会通念を追認してコメントしておられたが、論理的には、出版権は成功に対して与えられるのではない。
一つには、それは、言論出版の自由というものが憲法によって保障されているからであり、もう一つには、それは、出版はそれ自体の成否が問われる類のもので、この成功は、他の成功とは少なくとも形式的には独立でなければいけない、からだ。
これだとまだ上手く言えてない。
一々言わにゃならんのか?
著作以外の活動で成功した人が著者に成っても良いし、成功体験を本に書き、体験者本人が著したという事実を、その本の価値を高めるために使っても良い。
著作以外の活動で得た収益を出版に回しても良いし、会社を興して成功した人が、会社の中に出版部を作り、そこから出版しても、そんな事は、その人の自由だ。
しかし、成功者が書く場合であっても、本を書くという行為は、それ以前に成功した活動とはあくまで別の生産行為である。
本を書くという行為は、元来は、生産せずして金銭的対価と文化的評価を獲得する行為、ではない。
出版権を成功者に御褒美として与える、という考えは、出版を第二の造幣と考える、著作行為の矮小化である。
このような、著作行為自体は何らの独創性も持ち得ない、とする、著作行為に対する著しい不理解は、出版関係者の中にも存在する。
基本的に、著作の世界は、エリートカテゴリーであり高度に競争的実力主義的な世界だ。
これは、活発な競争が表面化している、という意味ではなく、首位者の著作のみが有為である、という意味においてだ。
一見すると競争が活発ではないかに見えるのは、敗北者が競争への参加を事前に辞退しているからだ。
これが、出版のモラルである。
つまり、法的には首位者でなくても出版して良いのだが、倫理的には、首位者以外は出版すべきではない。
この故に、私は、学術において著作を行なう、という行動に出るまでには、随分と長い時間、自分の著する能力が所定の値を超えるまで、能力を高める努力をしながら辛抱強く待った。
私が、相対性理論の教科書を書くつもりだ、と友人に話したのは、1990年頃だったが、実際に
相対性理論正典を著したのは、2000年よりも後の事だ。
自分の著する能力が所定の値を超えたか否かは、著者自身が自分の自信に基づいて独断で判断して良い事だが、出版するしないにその判断を反映させる場合には、あくまで正直に判断しなくてはいけないのであって、自己欺瞞は倫理に反する。
ここに言う首位者とは、厳しくても学術論文で言う所のオリジナリティを保有する者ぐらいの意味であって、公的に全人格が既に最高位に評価された人、という意味ではない。
また、首位性は著作者の属性ではなく著作物の属性であり、したがって、首位性が確立するのは著作開始時ではなく著作完了時である。
だから、どんなに無能に見える人に対してでも、著作開始前に首位性が無いと決め付ける事は、厳密に言うと間違った態度だ。
学術論文誌の運営には、著作の世界が実力主義的である事が、端的に現れている。
学術論文を掲載する雑誌というものには、査読者(レフェリー)というものが居て、査読者は、その論文誌の査読方針に沿って査読しなければいけない事に成っている。
結果的に、先進各国を代表するような諸学会の論文誌は、投稿が有為であるか否かを内容のみに依拠して評価し、有為な投稿に対しては投稿者の出生、門地、性別、職業、社会的地位、コネ、評判等に関わらず掲載する義務を負う、という姿勢を自主的に取る、という建前を持っている。
著作でも、学術ではなく芸術の場合には、法的のみならず倫理的にも、出版はほとんど全く自由な気がする。
その代わりに、学術の場合よりも、評価活動の持つ意味が、本質的なのかもしれない。
学術の場合も、論文にはオリジナリティが要求されるが、教科書等の解説記事には、論文オリジナリティは要求されず、せいぜい公的な存在意義が要求される程度だ。
相対性理論正典も含めて私の
物理学正典には、基本的に、公的な存在意義はあるが論文オリジナリティは無い。
しかし、相対性理論の教科書を読んで理解して、それを見ずに書けるように成った、というレベルに達しただけでは、まだ相対性理論の教科書を自分で書く段階ではない。
なぜなら、既にある本と同じ事を見ずに書いて出来た本には、公的な存在意義が無い、からだ。
今までの本を、全面的にではなくても良いから、少なくとも一面的には超えるものが書けなければ、本を出す段階ではない。
逆に、他人の著作物を見ながら自分で本を書く事が、直ちに剽窃なわけでもない。
私などは、細かな点は覚えていないので、見ながら書くよ。
私の著書「
古典物理学」に「天才の証」という言葉が使われているが、これは、この「古典物理学」という本を著すには、著す能力として天才を必要とするので、著す作業の成功によって天才が証しされている、という意味であって、たとえば、科学史の書として、著作開始以前の史実に基づいて、私が天才である事を歴史学的に証明してある、という意味ではない。
これに対して、出版は成功の証だ、という考えは、出版は著するという作業の成功以外の成功を証する、という極めて俗物的な考えに成ってしまっている。
原理主義的に考えると、著作活動の成否は著作の内容のみで決まる。
そうは言っても、私企業である出版社に完全に実力主義的に原稿の採用を行なえ、という風に強制する事は出来ないし、自費出版するには相当な資金が必要ではないか、と言うかもしれない。
確かに、その事が、本を出す事は成功の証だ、とされるゆえんであろう。
つまり、本を出すという事は、特別に財を成したか文化人として出版社から特別に評価されるまでに成った事を、意味する、という考えである。
しかし、少部数を自費出版する初期費用さえ負担でき、消費者が評価者として有能ならば、原理的には、拡大再生産の手法を用いれば、良い本は際限無く頒布可能なはずである。
もっとも、商業的な成功は運に大きく左右されるので、全てがそのように決定論的に進むものではないが。
さらに、出版の場合には、消費者の経済力の限界だけでなく、読書に使用できる時間の有限性、というものも、成否を左右する。
出版の世界の競争が「首位者だけが・・・」というぐらいに厳しいのは、本質的にはこの事に由来する、のかもしれない。
また、私企業だからと言って、原稿の採用を実力主義的に行なってはいない、と主張する事は、読者に対して、最良のものを提供しているわけではない、と公言する事だから、私企業でも少なくとも建前としては、そのような主張はしていないはずだ。
その分、この分野にもウソが多い。
出版関係者が著作行為の生産性を信じないのは、学問の場合、学校の先生職にある人を保護貿易的に著者として採用し、その人が、官僚の天下り先での業務のごとく、自分の授業でのみ使われる公的な存在意義の無い本を書いて小遣いを稼ぐ、という形でしか出版に関わった事が無く、本物の著する能力、というものに触れた経験が無いからだろう。
その事は、出版社には論文レフェリーのような査読能力が欠けている、という事情にもよるのだろう。
自分の書いた本が文豪の棚に並ぶ事を期待する態度に対して、それを嘲笑した国谷さんの態度も、内容の確認や推定に依拠せず、結果への著者の期待のみを見てのものだったなら、恥ずべき俗物的態度である。
一言「読んでみましたが、とてもそんな内容ではありませんでした」という風に添えれば、全く問題無かったが。
本を書くとは、論を構築する事であり、であるから、本を出す事によって証される著作開始直前までの成功とは、全てひっくるめると、その論を構築する能力が良く準備された状態に成った、という成功以外のものでは無い。
そうでなければ、本を出す事は、自慢できる事ではなく、虚栄に過ぎない。
虚栄は、道徳的悪ではないが、行為者の意図とは逆に、その人にとっての恥である。
もっと高級な話をすると、本を出す事は、著作開始時に持っていた能力を証する、という以上の意味を持っている。
と言うのは、私も含めて最も優れた書き手というものは、書きながら、書く事によって自分の知識を発達させるからだ。
そのため、著作開始時の能力だけからでは、著する作業を成功裏に完了する事が出来るか否か、判断できない。
多分できるだろう、という辺りで、著作に踏み切る。
著する事は、その意味、数学の問題を解く事に似ている。
著する作業を成功裏に完了する事が出来た、という事は、著作開始時に持っていた能力に付け加えて、その出来るか出来ないか分からない問題解決に成功した、という事であり、出版はこの成功をも証する、という点が、重要だ。
ちなみに、このような限界への挑戦としての著作行為は、学術の場合、既存の著作を見ながらでないと、出来ない。
言うまでもなく、ここに言う成功は、出版は成功の証だ、と普通に言うときの成功とは違う。
本を出す事は成功の証だ、という意見からは、著する事がそこまで困難な事業である、という認識が全く聞こえて来ない。
著作というのは、煎じ詰めれば、人間の生産活動の中枢である。
今風に言うと、知的財産、というものの生産だからだ。
工業特許は、設計図の著作という風に解釈され得る。
であるから、著作しただけでは生産した事には成らない、とは言えないばかりか、著作こそが、文化・文明への最大の貢献だ。
それは、人類の頭脳として働く、という事なのだから、当然であろう。
著作の矮小化は、著作のこの圧倒的な優位性から、事実弱者を守るための、なぐさめ、かもしれない。
それは悪くないが、先述したように、なぐさめの論理を社会の公認の哲学にしては、いけない。