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2007年11月14日(水)
事実弱者と正義弱者
学問の厳しさの話で言うと、自分が間違える事というのは、皆無ではないにしても、人によっては極端に少ない場合がある。
他人が間違えない事、についても、人によっては、他人が間違う部分で間違えない事が頻繁にある、という人も居る。
そういう人には学問の厳しさは無いのか?
はっきり言って、無い。
早撃ちガンマンに喩えると、ナンバーワンの早撃ちガンマンは楽して良い事ばかりだ。
逆に、人によっては、いつも間違えてばかり、自分が間違えなかった事はどれも他人も間違えない、という人も居るだろう。
そういう人はいつも面白くない事ばかりなのか?
はっきり言って、そうだ。
そういう人を私は事実弱者と呼ぶ。
事実弱者とは、自分に関する事実が自分にとっての敵と成るような人の事だ。
フェアな格差社会では、原則においては、そういう格差はいくら生じても良い、と考える。
あくまで、この原則を踏まえた上での話しだが、しかし、それでは、事実弱者にとってあまりに酷ではないか、という考え方は出来る。
こういう考え方を学問のあり方に反映させてはいけないが、実利に関しては反映させなければいけない。
つまり、良く言われるように、完全な自由競争では、弱者は死ね、と言うのか?という事に成ってしまうからだ。
その意味で、フェアな格差社会の厳しさには、弱者割引を組み込む必要がある。
正義感についても同様だ。
他者の悪行によって追い詰められたのでなければ、悪い行いをするか、踏みとどまるかは、その人の自由意志による選択であるから、その結果に対する責任は、全面的に行為者にある、という道理の正しさは、一見、動かし難いかに見える。
あくまで、それを原則として踏まえた上での話だが、しかし、良く考えてみると、生まれつきの性質として、たとえば遺伝形質が、悪行に走り易い、という可能性だってあるだろう。
そういう場合には、どうすれば良いのか?
やはり、公益や被害者の権利を減じない範囲内で弱者割引のようなものを考えるべき、という事に成りはしないか?
ただし、弱者割引は、あくまでフェアな格差社会の厳しさに対する微弱な補正であって、フェアな格差社会の原則を踏まえずに弱者割引を言うと、即逆差別社会に成る事に、いくら注意してもし過ぎる事は無い。