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2007年11月11日(日)
言論の自由とは蔑視の自由である
いつ頃からか、要人の失言失脚が多く成った。
アレがコレを馬鹿にした、とか、コレがアレを馬鹿にした、とかいう理由で、多くの人が辞任させられた。
これは良くない事だ。
高位高官は何をしても許される、という事であってはいけないが、本来業務以外のところでケチを付け失脚させる事を繰り返せば、本来業務の方が落ち着きを欠く結果に陥る、とは良く言われる事だ。
千切っては投げ千切っては投げ、では、まだ投げられていない残り物による残り物政治、挙句の果てには、そして誰も居なくなった、に成ってしまう。
幸い、今の内閣は残り物内閣ではないので、今あるものを大事にして長持ちさせるのが、事態をこれ以上悪化させないためには、無難だろう。
やめさせようと思えば、叩けば埃が出る、とばかりに、どうにでも理由をこじ付けて、任意の人を任意の時期にやめさせる事が出来る、という事であってはいけないはずなのに、失言失脚やスキャンダル失脚の頻発を見ると、その辺りを心配せずに居られない。
基本的に、失言というものは、違法なものでなければ、自主的に差し控えるべき事であって、周りの人間が禁止する事ではない。
良く、それはそうだが、要人の場合には立場が立場だから、そうも言っていられない、と言う。
しかし、実際には、要人以外の場合にも、失言を罰する圧力は働く。
むしろ、要人の方がそういう圧力から自由である、という側面がある。
であるから、要人の場合にはこう、それ以外の場合にはこう、と言っていたのでは、結局、失言の自由が保障される場所なんて、どこにも無くなってしまう。
そういう場所を、見付けて潰すのではなく、漸次拡大して行く事を考えるべきなのだ。
言論の自由も含めて、色々な自由が無い、というのは、社会主義の特徴である。