since 2003
イレコナビ サイトマップ
< 日記 >
< 2007年11月 >
< 07日 >
2007年11月7日(水)
格差が正義である
今の世相を肯定するのではない。
今言われている格差社会というのは、多分に逆格差社会の様相を呈している、からだ。
格差が問題なのではなく、貧困が問題なのだ。
実際、格差社会が問題として取り上げられているのを見て一番胸が痛むのは、最も貧しい人々がいかに貧しいか、という部分であって、豊かな人との格差の部分ではない。
結果の平等というものは、結果的に自然とそう成るのならば、それに越した事は無いが、それを保障するという事に成ると、不公正の容認が必要と成る。
個人間には、優劣の差が、厳然とした事実として、あるからだ。
平均よりも優れた個人を平均的だと言いくるめる事は、冤罪に等しい。
能力が大きい人から、能力が小さい人からよりも多く取り出して、同じ給料しか払わないのは、搾取だ。
能力が小さい人にも能力が大きい人と同じ事が出来るはずだと決め付けて、能力が小さい人を無理な仕事に駆り立てるのは、強盗と同じだ。
男女差別がいけない、と言うのは、女の平均から外れた個人を女だからという理由で男の平均以下だと決め付けてはいけない、という意味であって、男の平均と女の平均の差を否定するものではないし、女だから能力が男以下であるような人に男の仕事を強いるものでもない。
平等な社会にする事よりはフェアな社会にする事の方が大切だ。
スポーツの試合で結果の平等を保障する事は八百長に他ならないし、西部劇の決闘で言うと、結果の平等は、負けた方のガンマンが「不公平だ、俺にも撃たせろ」と言うようなものだ。
今の日本で何故貧困がはびこっているのか?
それは、フェアな格差社会をバブルと言って放棄したからだ。
もちろん、バブルと呼ばれる現象には、いけない部分もたくさんある。
しかし、バブルを否定する、という考え方は、経済を生活必需品中心にする、という社会主義の考え方の言い換えだ。
文化財の生産と消費が経済の中心と成り、文化人がふんぞり返って物財生産者を見下す、という構図に対する怨念が、今の残酷な日本を作り出している。
これは、共産主義革命と似ている。
共産主義革命では文化人や知識人が眼の敵にされて粛清の対象と成った。
選挙で良く聞く「庶民が主役」や「思いやり」という言葉も、この言い換えだ。
様々なところで、隠語によって社会主義理論が説かれている、という風に見抜く事が大切だ。
社会主義理論をそのまま説いたのでは誰も相手にしてくれないからだ。
最近、妄想という語が、バブルを表す隠語として、しばしば用いられる気がする。
社会主義の用語では、ブルジョア的という用語などが、これに該当する。
芝居ならぬ実際の社会で主役を予定するのは、八百長に他ならない。
社会の主役は、本来、いわゆる成功者つまり勝ったやつ、だ。