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2006年7月27日(木)晴れ
教師の優劣
教師の優劣の判断基準として最も肝心な項目は、知りたい事を知るために、出来るように成りたい事を出来るように成るために、教師の説明に最大の注意を払う生徒に対して、その生徒の知識や理解や技能をどれだけ伸ばせるか、であって、注意を払わない生徒に如何に注意を払わせる事が出来るか、ではない。
この、僕が重要だとする項目において、教師の優劣には雲泥の差がある。
先生はみな同程度に先生だ、なんて事は絶対にない。
優れた教師というものは、まずどこにも居ない、というぐらいに希少である。
これが先生の本質である。
先生というものは、本来、居るはずのないぐらい優れた人なのだ。
この点を歪めて、学ぶ意志の無い生徒、授業を妨害する生徒に、如何に対処するかが、教師として最重要事項であるかのように言う風潮は、僕が重要だとする項目において端から勝ち目の無い劣等教師の自己防衛策であり、この事によって、優れた稀有な教師が、市場競争において、劣等教師と同格か、あるいは劣等教師よりも劣るものとして、排斥され兼ねない状況は、劣等教師が教育を食い物にしている、という事の現れに他ならないのだ。
生活指導も教育であるが、それの教師は、学問の教師ではなく生活指導の教師である。
生活指導は尊く、学問はどうでも良い、などといった事はない。
むしろ逆だ。
生活指導は、教育の中では、もともとは雑用であったはずだ。
それは学問以前の問題だ、と言われるような事を指導するのが生活指導であって、それが出来たところで、学問としては、生徒はやっとスタートラインに着いた、という段階に過ぎない。
危惧すべき事に、現代社会においては、生活指導もますます重要に成って来ているのも事実だが、それが教師の分担なのか、という問題をさて置くとしても、学問の教育は全く評価されなくて良い、とか、学問の教育では差はつかない、という考えは間違っている。
つまり、僕が言いたいのは、教授法の優劣が教師の優劣の核心であり、この優劣の雲泥の差の存在を認めるべきであることと、優れた教師が正しく評価されるべきだ、ということだ。
つまり、優れた教師は市場競争において圧倒的に優位、であって当然なのだ。