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2006年5月26日(金)雨
デイヴィッド・ボーム著「断片と全体」
最近、あるMLで、この本の存在と内容の概略を知り、それが、僕の文法主義やその具体的実践例を、先取りしたものであるかどうか、を確かめるために、僕はこの本を、購入して今読んでいる。
文法主義との関係については、改めて、
僕の文法主義専門サイトにキチンと書くとして、ここでは、この本のタイトル「断片と全体」と、当サイトのPROFILEページに書かれている僕の専門の表示「文法レベルでの自然(要素過程と全体)」との関係について述べたい。
まず、ボームの著作においては、「断片」という語は、「全体」という語との対比において、否定的な意味において用いられている。
「断片化が諸悪の根源である」「全体性を取り戻す事が必要だ」という風に。
それに対して、僕の用いている「要素過程」という語は、文法主義の適用の対象を述べたものであり、普通に言うところの「素粒子論」の事だから、ボームの言う「断片」とは違って、僕は、これに否定的な意味を担わせてはいない。
「全体」という語についても、ボームは「全体主義」といった意味合いでこの語を用いており、僕も、政治における悪名高き全体主義には反対だが、学問のやり方としての全体主義には大賛成で、僕の用いている「全体」という語も、その事情を背景としているとは言え、僕がPROFILEページで用いている「全体」という語は、これまた、文法主義の適用対象を表すものであり、普通に言うところの「宇宙論」の事だ、という意味において、僕の言う「全体」の方がいささか限定的だ。
つまり、僕の「文法レベルでの自然(要素過程と全体)」という表示は、(文法レベルでの自然)=(要素過程と全体)という意味を内包すると解釈されるべきものではなく、素粒子論と宇宙論に対しての文法主義的アプローチ、という意味に解されるべきものなのだ。
こんなの言わなけりゃあ見る人に分からないね、ゴメン。
僕は、「素粒子論」という語を、前々から、十分に洗練されていない、と感じており、これを改善するついでに、「宇宙論」という語についても考え直してみた。
その結果、「素粒子論」に対しては、以前耳にしたことのある「要素過程」という語を、「宇宙論」に対しては「全体」という語を充てることにしたのだ。
したがって、ボームの本の「断片と全体」というタイトルと、僕の専門の対象の「要素過程と全体」とは、奇遇にもか僕の知らない必然性に依ってか表面的には酷似しているが、内容的には似て非なるものだ、ということを、ご理解いただきたい。